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[ 553] 爆笑問題 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%86%E7%AC%91%E5%95%8F%E9%A1%8C

日本大学芸術学部在学中に出会い、中退後の1988年結成。ライブハウス『ラ・ママ』でデビュー。その場で太田プロにスカウトされる。ホンジャマカ、浅草キッド等と共に「お笑い第三世代と第四世代の狭間の世代の代表」と言われる。
ショートコント全盛の時代に、「生徒指導室」「東京の不動産屋」などの作り込まれたコントで注目を集めるが、次第に漫才を主体とするようになる。太田の毒に満ちたボケと田中のストレートなツッコミという正統的漫才で人気を博した。
1990年、太田プロから独立。しかし、この独立は一方的に辞める形だった為、太田プロの怒りを買うことになり、一時的に仕事がなくなりテレビからも姿を消す。所謂“干された”状態になった。
辞めた理由は、自分達のやりたい仕事がしたかったから、人気者となった2人を当時の担当マネージャーが唆した、など諸説あるが、このことについて自ら話したりネタにすることはなく、周りもその話題に触れることはない。
この時期は、田中は主にコンビニのアルバイトで、太田は妻・太田光代のパチンコやパチスロでの稼ぎで生計を立てていた。太田は暗算が非常に苦手で、レジのバイトをすると客から苦情を言われないようにと釣銭を多く渡す等まともにアルバイトが出来なかった。一方田中はこのまま社員にならないかと声をかけられるほどの仕事ぶりであった。
しかし3年間全く仕事がなかった訳ではなく、オムニバスドラマ番組『悪いこと』では脚本(太田)・出演(太田、田中)、オムニバス映画バカヤロー!4(森田芳光プロデュース)の中の一本では監督(太田)を務めた。また、営業として数多くの予餞会でネタ披露をした。自称「日本一予餞会に出た芸人」。
この番組で、ネプチューン、海砂利水魚を始めとする当時キャブラーと呼ばれた若手芸人たちの出世頭となり、再ブレイクのきっかけをつかむ。『黄金ボキャブラ天国』では初代名人に。当時のキャッチフレーズは「不発の核弾頭」。
放送部門のバラエティージャンルからは史上初の受賞となった。理由は「タモリ、たけし、さんま、紳助の存在が圧倒的な中、10年以上もポジションを得て常に成長しながら抜群の安定感を見せている」とのことである。この受賞は、受賞発表の直前に急逝した久世光彦の強い推薦によるものという。二人が進行するテレビ番組『爆笑問題のススメ』に久世光彦がゲスト出演した(日本テレビ系では2005年12月10日深夜放送)ことがきっかけで、久世が「あの二人にあげればいいじゃないか」と言い切ったといわれる。
この時同時に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した人物に画家の和田義彦がいるが、その後和田は盗作疑惑で世間の耳目を集めることとなる。一連のTV報道において受賞者が正装して勢揃いした映像が多く使用されたが、和田の後ろにこの2人が映っていたのが印象的であった。
コンビ名の由来はラテ欄でよく使用されるフレーズ「爆笑」と、本屋でたまたま「問題実話」と言う本を目にした際、タイトルに「問題」と入れていたことが印象に残っていた事から太田が命名。また、カタカナ名のコンビが多いため目立とうとしたのも理由の一つである事を太田の自伝「カラス」に記されている。「カラス」は一時期コンビ名を変えようと考えていた時、候補に上がっていた言葉である。
田中は太田のことを以前は、「光」と名前で呼んでいたが、そのフレーズに太田が難色を示したこともあり、現在では「太田さん」と呼んでいる(但し、稀に「光」と誤って呼ぶこともある)。
太田は田中との比較において絶対的な自信を持っており、様々な機会を捉えては田中への非難・痛罵を繰り返す。これはギャグの一つであり、名物とも言えるが、時に極めて偏執的かつ長時間のものとなる。このようなことからコンビ仲が悪いと言われる事もあるが、ファンの間からは「お互いの信頼関係があるからこそ出来るギャグ」と評されている。
テレビなどでは太田の方が立場が強い様に見られるが、実際には短気な田中(「キレる子供」と揶揄される)がすぐに解散を口にするので、いつも太田が謝って収拾している。
2人の出会いは日大芸術学部の試験会場であり、試験会場で叫んだ太田を見た田中は「関わり合いになりたくない」と思っていた。その後、大学の合格発表時に偶然再会して田中が太田に話しかけた所、太田は受験会場の様子とは全く違い、律儀な受け答えをしていた(『笑っていいとも!増刊号』にて)。また、入学後の最初の授業でも騒ぎ他の生徒達を盛り上げたが田中はその雰囲気に乗らなかった。
漫才のネタは主に太田が作っている。時事ネタや社会風刺を題材としたものが目立ち、「社会派漫才」等と呼ばれる。芸能人の活動の中心がテレビとなっている中、太田は「ラジオで笑いが取れる芸人になりたい」と、漫才への思いを表している。一方、ダジャレネタがメインの『ボキャ天』では、主に田中がネタを考えていた。
漫才のネタは「田中がスクラップした新聞記事を太田が読んでボケて行き、田中はそれに対してツッコミをいれつつネタを書き留めて行く形で作る。そのことから太田は田中のことを「書記」と指した事がある。ネタ作りは太田家のリビングで行われる。
デビューして間もない頃、2人の才能を見抜いた落語家の立川談志は太田に「天下獲っちゃえよ」と応援の言葉を送ったという。また、「こいつ(田中)だけは切るな。こう出来た奴もなかなか居ないもんだ」と、田中の相方としての重要性を説いている。
『水着でKISS ME』では交互に主演し、毎回ベッドシーンを演じていた。また、TVなどの出演が殆どなかった時代には、太田が書いた脚本を同期のホンジャマカが演じたこともあった。
2000年9月11日、田中は片側の睾丸の摘出手術を行なった。その際、シドニー五輪になぞって「田中、金とった!!」と言う見出しがスポーツ新聞を飾った。また、記者会見では太田が田中をネタにギャグを連発して笑いを取った。なお、前日から太田は入念にギャグを考えていた。
2人とも猫好きであるが、ペットの可愛がり方は異なり、可愛がり倒す田中に対して太田は殆ど構わない。その所為で互いの猫の性格も違い、来客に纏わりつくような田中家の猫に対して、太田家の猫は来客には絶対に近寄らない。
2人とも酒が飲めないが、太田が眠れない時に焼酎を飲んで酔っ払い、翌日の仕事でまだ酔いが残っていた為、スタジオの照明を見て踊りだす事があった。
2人は佐野元春とサザンオールスターズの話題になると、必ずどちらの方がより良いファンかという話題でもめる。
『爆笑問題のススメ』内で、ゲームでイカサマをするか、ルールを守るかで大論争。そのときのゲストである糸井重里に「このコンビはすごいね」と言われた。
また、お互いはごく近所に暮らしている。(太田は「田中がこっちに引っ越してきたんだ」と言っているが、田中は「お前が俺の生まれ故郷(東京)にやってきたんだろ」と反論している。)
テレビ番組(現在は司会・MCが主)、ラジオ番組(『爆笑問題カーボーイ』)のレギュラーを多数抱えるが、タイタンの定期ライブや雑誌の連載、本の出版などもこなしている。なお、爆笑問題名義の書籍は主に太田が執筆している。
お笑い芸人がトップクラスの域になると自分のレギュラー番組しか出演しなくなる傾向が強い中で、多忙になった現在でも積極的に他人の番組にゲスト出演をしている。また、NHK等、教養色の強い番組への出演も多い。
日本大学時代の取得単位は二人合わせて17単位だった。しかも太田は2単位しかとっておらず、そのうち1つはスキー合宿の参加者全員にもらえる単位だった(「爆笑問題のきょうのジョー」、「爆笑問題の世紀末ジグソーパズル」などの発言より)。
タモリとはまだ無名だった頃にも共演しており、『タモリ倶楽部』『タモリのSUPERボキャブラ天国』の出演で世間に知られるようになった。以前に爆笑問題カーボーイで、自分たちの実力が一番発揮できる番組として、『タモリ倶楽部』を挙げていた。
「たけし・さんまの有名人の集まる店」出演時に太田は、同じくBIG3であるたけしとさんまに、トークではタモリに憧れを持っている、という発言をしている。
1997年頃からブレイクするようになり『笑っていいとも!』の出演もこの頃から多くなった。その後、2000年4月から水曜レギュラー陣として正式に加入するようになった。
だが、笑っていいとも!やタモリのジャポニカロゴスに出演する反面、タモリの番組、笑っていいとも!増刊号では裏番組のサンデージャポン、タモリのジャポニカロゴスでは裏番組の爆笑問題のニッポンの教養、ミュージックステーションでは裏番組の太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。と3つの番組が被っている。
太田はビートたけしの影響を強く受けており、「たけしさんが出てきた時から、本音を言うことがいかに面白いかを知った」とフジテレビ「たけしの日本教育白書」で語っている。
太田が「コメディ映画を撮りたい」とたけしに相談した際、「映画を作るなら初めに当てろ」「コメディ作るなら金をかけろ」と言われた(「伊集院光 日曜日の秘密基地」より)。
たけしは爆笑問題結成当初の頃にたまたまコントを見た事があり、「こいつらは面白いと思った」「ネタの切り口がツービートと似ていた」と語っている。
明石家さんまは、爆笑問題が太田プロに所属していた頃から高く評価しており、初めて共演した1990年頃の『初詣!爆笑ヒットパレード』で2人のネタを絶賛し、「爆笑問題の時代になる」と確信していた(『さんまのまんま』にて)。
一方二人も学生時代からさんまのオールナイトニッポンのファンであったと話しており、「ビートたけしのオールナイトニッポン」と共に「木曜日が楽しみだった」と語っている。
さんまがたまたま番組の打ち合わせをしていた時、隣のスタジオで『ポンキッキーズ』内の『爆チュー問題』のコーナーのリハーサルを見学して笑っていた。この話は『明石家さんまのフジテレビ大反省会』で取り上げられ、「お前ら、リハーサルしすぎや!」と爆笑問題にツッコミを入れていた。
さんま自身が滅多に他人の番組のゲスト出演をしない為、爆笑問題カーボーイにゲスト出演したのは異例とされている。
さんまが爆笑問題と共演すると、必ずと言っていい程“田中の身長”をネタにしたり2人が独立して苦労した頃の話をしたりする。特に独立して苦労した話に関しては当時のさんまもかなり心配していた模様で、爆笑問題が再び売れ始めた1998年頃には積極的に自らの番組に出演させるなど一役買っている。また、「たけし・さんまの有名人の集まる店」ではお笑いコンビとしては唯一ゲストとして出演をさせ、「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー」では初めてスタジオに直接出演させるなど優遇している。
爆笑問題はさんまがレギュラー時代の金曜日の『笑っていいとも!』にも数回出演していたことがある(2002年4月7日放送の『笑っていいとも!増刊号スペシャル』にて)。
爆笑問題が結成間もない頃、『関東のお笑い登竜門』とも言われている渡辺正行主催のライブ「ラ・ママ」に初出演したネタが大ウケしてその場で太田プロにスカウトされ、ライブ内で話題となった。渡辺は後にインタビューで「この瞬間に立ち会えたのは幸福なこと」と語っている。
結成当時から行っていた『いじめ』などの差別ネタや毒舌ネタなどが「TV向きではない」などと言われ出した際、渡辺は「今はTVに出るよりも面白いと思えるものをやった方がいい」と擁護した。
その後、渡辺は「爆笑大問題」シリーズにレギュラーとして出演し、番組が終了した現在でも爆笑問題の番組に度々共演する機会がある。また、雑誌の連載で「師匠と呼べる存在」と呼ばれたこともある。
タモリのSUPERボキャブラ天国→タモリの超ボキャブラ天国→新ボキャブラ天国→黄金ボキャブラ天国(フジテレビ系)
ロンQ!ハイランドゴールデンタイムスペシャル(放送日不明、太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。チームとして、日本テレビ系)
二人が歴史や時事問題等について漫才形式で書かれているもの(「日本原論」シリーズ等)が多いが、太田によれば、爆笑問題・著となっているにもかかわらず田中はまったく作業に参加せず、太田が一人で執筆している例もあると言う。田中曰く「名前貸しみたいなもんです」。また、原稿料は田中にも配分されている。
スーファミショー歌(シングル、セント・ギガ) 非売品。放課後の王様の企画で製作され、聴取者にプレゼントされた。
定期的に行われる爆笑問題のライブや爆笑問題の番組に多く出演する芸能人、もしくは爆笑問題と親しい芸能人。

 

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