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福田とは?/ アイフル

[ 495] 福田康夫 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB

この項目では政治家の福田康夫について記述しています。同姓同名の他の人物については福田康夫 (曖昧さ回避)をご覧ください。
第2次森内閣 において内閣官房長官に抜擢され、続く小泉内閣でも官房長官を務めた。自身の年金未納が発覚したことで3年半余り務めた官房長官の職を引責辞任。ポスト小泉の候補として、安倍晋三の対立候補として総裁選への立候補が注目されたが、結局出馬しなかった。2007年9月、安倍晋三首相の突然の辞任劇の中、当初、後継総裁の最有力と見られた麻生太郎を抑え、自民党の大多数の派閥の支持を背景に自民党総裁に立候補、麻生を破り、第22代自由民主党総裁に選出され、第91代内閣総理大臣に就任した。
1936年7月16日、東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる[2]。戦時中、実家の旧群馬町に疎開していた[3]。群馬県群馬町金古小学校、大宮市南小学校、東京高等師範附属小学校、渋谷区猿楽小学校などに学ぶ。1949年3月、東京第一師範学校男子部附属小学校卒業。小学生時代の福田は野球の好きなスポーツ少年で、駐箚[4]中国大使を務めた谷野作太郎とはこのときから交流があった[5]。
田中角栄が空前の金権選挙を仕掛けた1972年の自民党総裁選では、康夫も巻き込まれ、赳夫の代理人として買収を行っていた[13]。
初当選後の取材で「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代。独立した一人の人間として見ていただきたい」と語っていたが、「おじいちゃんのあとを継いだおじいちゃんだから」などと漏らしてもいた[14]。以後6回当選する。50歳以上初当選組のクローニンの会に所属している。
議員としては、外務政務次官、衆議院外務委員長、党外交部会長を務めるなど、初入閣までは主として外交関係のポストで地歩を築いていった。
2000年10月に第2次森内閣で、女性スキャンダルが問題視され辞任した中川秀直に代わって内閣官房長官に就任する。後任人事として小泉純一郎や尾身幸次があげられていたが、当時森派会長だった小泉が「本人の能力、人間性、人格などすべてを勘案し、今の時点で一番適任」[15]、と考え推薦した。閣僚経験が皆無であったにも関わらず、森内閣で官房長官に起用されたことに疑問の声も上がったが、父親の首相時代に首相秘書官を務めていた経験が生き、無難に調整役をつとめた。森内閣においては首相の失言やKSD事件、外交機密費流用問題などの弁明に追われることも多く、「弁明長官」と呼ばれた。
その後小泉内閣では2度にわたる内閣改造でも留任。 在任期間が延びるにつれ、首相に直言できる女房役としての存在感は次第に増していくことになった。官房長官の記者会見で垣間見える冷笑的態度から、ネットの匿名掲示板では「フフン」というあだ名がついた。
実務能力には定評があり、官邸主導の政治体制が確立していく中で、政府各省や与党との調整に力を発揮した上、本来の得意分野である外交における存在感も徐々に増していった。小泉内閣では、外務大臣田中眞紀子と外務省官僚との軋轢を巡る騒動の中で外務省が機能不全に陥った時は、大臣の頭越しに自ら外務省事務方への指示を行った。そのため、外務官僚が外務大臣よりもまず官邸に赴くことが常態化したため、「影の外務大臣」などと囁かれた。
田中の後任には川口順子が就任したが、川口は民間人閣僚のため与党内に基盤を持たず、福田の外交への関与はその後も続き、官房長官を退任するまで官邸外交を取り仕切ることになった。
男女共同参画担当大臣を兼任し、「2020年までにあらゆる分野の指導的地位に占める女性の割合を30%にする」という数値目標などを掲げた[12]。また、沖縄開発庁長官として沖縄科学技術大学院大学の設立構想で関係閣僚会合を開くなどして主導、女子暴行事件の容疑者引渡し交渉など米兵による事件にも対応した[16]。こうした経験から、首相就任時に沖縄に関して理解を示す期待が一部でされた[16]。ハンセン病補償法訴訟の控訴断念にも一役買い(後述)、政府の公式謝罪をした[17]。
在職中は、台湾前総統の李登輝が病気治療目的で来日を希望した際に、中国への配慮から、外務大臣河野洋平と共にビザ発給に反対したといわれる。また、北朝鮮による日本人拉致問題に関し、「終始冷淡な態度をとっていた」と家族会は語っている(#エピソードの項を参照)。
中国や韓国等の、靖国神社参拝に反対している国の意見などにも一定の配慮をすべきこと、憲法改正には周辺国の理解が必要と主張していることなどから、反米保守(ナショナリスト)グループから「親中派」、「媚中派」などと批判されることもある。特に、『文藝春秋』とその系列メディアが官房長官在任期間中ほぼ毎回福田批判記事を掲載したことに激怒し、『文藝春秋』から政府広報の広告を引き上げさせたとの報道も一部でなされた(2004年から数ヶ月間、『文藝春秋』の誌面から政府広報が一切無くなった)。
年金未納が発覚して小泉内閣の官房長官を辞任した後は、政権と距離を置き、第3次小泉改造内閣にも入閣しなかったために、小泉内閣に批判的な一部政治家やマスコミ・知識人などの自民党内外の諸勢力の間に総理総裁就任待望論があり、小泉の2006年9月の総裁任期満了を控え「ポスト小泉」有力候補(俗に言う麻垣康三)の一人に挙げられてきた。
事前の各種世論調査において次期自民党総裁・首相として、安倍晋三に次ぐ支持率を得ることが多く、安倍に次いで次期首相の座に近い立場にあると目され、安倍への対抗馬の筆頭として注目を集めていた。アジア外交などについて小泉内閣の路線を踏襲する色合いの強い安倍に対して、アジア重視の姿勢を見せるなど対立軸を提示し、政権への意欲ともとれる動きも見せていたが、2006年7月21日、総裁選への不出馬を正式に表明。これに出馬を期待していた勢力からは失望の声が聞かれた。これを受け「ポスト小泉」の総裁選は、安倍の大勝に終わった。
安倍内閣においての要職起用は無く、表立った活動は少なかった。2007年6月には党住宅土地調査会会長として「200年住宅ビジョン」を発表したことが話題となった。与党が大きく議席を減らした2007年7月の参院選後は、8月27日の内閣改造人事における起用が取り沙汰されたが、実現しなかった。
しかし、7月の群馬県知事選挙では、自民党候補の大沢正明の選挙対策本部長を務めて当選に導き、そのリーダーシップを発揮した[11]。
2007年9月12日に安倍晋三が内閣総理大臣、自由民主党総裁の辞任を表明し、その翌13日、自由民主党総裁選挙への出馬意思があると報道され、自身も出馬の方針を示した。
15日、自由民主党総裁選挙に立候補の届出をした。対立候補として麻生太郎が立候補したが、町村派含めたほぼすべての派閥(事実上、麻生派以外の全派閥)が福田支持を決定しており、圧倒的優位が伝えられていた[19](ただし、実際は各派閥の所属議員に対する拘束力が弱まっており圧倒的ではなかった)。また、小泉純一郎も事実上福田支持となった。
同年9月25日に開かれた内閣総理大臣指名選挙(首班指名選挙)において、与党が過半数を占める衆議院では圧倒的多数で指名されるが、逆に野党が過半数を占める参議院では、民主党の小沢一郎が指名されるという“ねじれ国会”(逆転国会)の象徴的現象が起きた。両院協議会が開催されるが議論はまとまらず、法規に則り衆議院の議決が国会の議決となり、福田が内閣総理大臣に指名された。内閣の組閣に当たり、記者会見で福田は、「一歩でも違えば、自民党が政権を失う可能性もある」と指摘した上で、「背水の陣内閣」と自身の内閣を命名した。
2002年5月31日、内閣官房長官在任中、日本は理屈上核兵器保持は可能だが政策判断としてやめていると従来からの政府答弁をした。その直後に政府首脳が「(将来)国民が核を持つべきだということになるかもしれない」と「非核三原則見直し」と発言したと報じられたが、野党はこれを福田の発言であるとした[23]。オフレコでの発言だったものの、非核三原則の見直しと捉えられ批判を呼んだ。同年6月10日、国会でこれらの発言等についての集中審議(議題を絞った審議)が行なわれた中で、福田は「それぞれの時代状況によって安全保障という問題は、国際情勢などを踏まえたさまざまな国民的議論があり得るということを述べたもの」、「将来、政府としての非核三原則見直しをするというような可能性を示唆したというのは自分の真意ではない」、「今後とも非核三原則を堅持していくという立場に変わりない」旨の釈明をした[24]。
自衛隊インド洋派遣について肯定的であり、内閣官房長官在任時にテロ対策特別措置法の制定を主導し成立させた。当時の内閣官房参与だった岡本行夫は「安全で安上がり、しかも国際社会から評価された福田流外交の面目躍如」[25]と評している。2007年9月、同法の延長について「(海自の活動は)日本の国際平和協力の一つの柱だ。現行法の延長が時間的制約で難しければ、新法を視野に入れるのはやむを得ない。新法を出すなら、臨時国会だ」[26]との考えを表明していたが、最終的に第168回国会への「テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法」(いわゆる「新テロ対策特措法」、「補給支援特措法」)提出を選択し、2008年1月11日に補給支援特措法を成立させた。前年11月1日にテロ対策特別措置法が失効したため、海上自衛隊はいったんインド洋から撤退していたが、補給支援特措法成立に伴い、福田は海上自衛隊のインド洋再派遣を命じた。
自衛隊インド洋派遣、 テロ対策特別措置法、および テロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法も参照。
自衛隊イラク派遣についても外務大臣の川口順子、防衛庁長官の石破茂ら関係閣僚とともに政策立案を主導、内閣官房長官在任時に「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」(いわゆるイラク特措法)を成立させている。
自衛隊イラク派遣および イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法も参照。
守屋武昌への接待問題や給油量隠蔽問題など防衛省の不祥事が相次いで発覚したことから、福田は内閣官房長官町村信孝に対し、内閣官房に「防衛省改革に関する有識者会議」を設置し対策を検討するよう指示した[27]。
日本とイランとの首脳会談にて、福田は「日本とイランは石油以外の関係が進まない。障害は、核開発、ミサイルなど安全保障の問題だ」[32]と主張し、イランの大統領マフムード・アフマディーネジャードに対し核開発を中止するよう直接要請した。
アフマディーネジャードは福田の主張に対し反論したが、その際に「核兵器は旧式で効率が悪く、保有しても実際には使えないことは、よくわかっている」[32]と述べた。この発言を聞いた福田は言葉尻を捉え「いい話をうかがった」[32]として「大統領が核兵器を中心に安全保障を考えていないことは重視したい」[32]と指摘し、さらに重ねて「濃縮を停止する英断を求めたい」[32]と要求を繰り返した。アフマディーネジャードは既存の核保有国の軍縮を持ち出して再反論したため議論が白熱し、最終的にアフマディーネジャードが「テヘランか東京で議論を続けたい」[32]と収めることになった。
その際、福田はイランでの日本人学生誘拐事件の早期解決も同時に要請し、アフマディーネジャードから「健康に家族のもとに戻れるよう最善の努力を払う」[32]との言質を取った。
中川秀直、麻生太郎ら安倍内閣が提唱した経済成長による税収増を目指す上げ潮派とは一線を画しており、小泉純一郎、谷垣禎一らが小泉内閣において推進した「財政再建重視政策」を主張している。福田は「小泉構造改革は、改革の道筋・日本の行く道を示し、大きな成果を挙げた'」と評価しており[33]、構造改革を「実行する上での諸問題に丁寧に対応し、この改革の方向性を見失うことなく道筋を作っていかなければならない。方向性は変わらない」と語っている[33]。具体的には、小泉内閣が推進した歳出・歳入一体改革の継承を謳っており「歳出・歳入改革を一緒にできないか。一緒に進めることで改革のスピードを上げられれば一番良い」と発言している[33]。また、小泉内閣では先送りされた消費税増税については、「消費税を増税しなければ財政赤字は減らない」としている[33]。
上げ潮派には否定的であり、景気浮揚を目指しての財政出動を伴うバラマキ型政策は採らないとしている。日本政府は2011年度までに基礎的財政収支の黒字化を目指す財政再建目標を掲げているが、福田は「達成するように最大限努力するのは当然だ。先に延ばすことは一切考えていない」[34]と明言している。麻生太郎や公明党幹事長の北側一雄らが財政再建目標の先延ばしを訴えており、連立与党の公明党とも主張が対立している。
2008年3月19日、自由民主党政務調査会長の谷垣禎一と公明党政務調査会長の斉藤鉄夫に対して指針『道路特定財源の考え方』を示し[35]、一般財源化に向け税制改正による道路特定財源の見直し、新需要予測に基づく道路整備中期計画の見直し、道路予算の透明化・厳格化など5項目の実現を谷垣と斉藤に指示した。
福田の打ち出した指針には「道路特定財源は税制抜本改正時に一般財源化に向け見直す」[36]との文言が明記されたうえ、福田が「全額一般財源化を視野に入れたものだ」[36]としたため、福田との会談を終えた谷垣は「首相はここまで考えていたのかと驚いた」[36]と語った。さらに、福田は記者団に対し「税制の抜本改革は前から約束している。その際は(道路特定財源の)全額一般財源化も視野に入れ検討していく」[37]としたうえで「暫定税率は抜本改革の中で考えていい」[37]と語り、一般財源化するだけでなく税率自体の見直しも検討課題に含むと表明した。
2008年3月27日、福田は総理大臣官邸で緊急記者会見を行い、道路特定財源制度を全て廃止し2009年度から一般財源化すると正式発表した[38]。道路整備中期計画については整備期間を半減させ[39]、整備計画や一般財源の使途については与野党協議会での協議に応じると提案した[38]。また、公益法人や道路整備特別会計については、無駄な支出の排除徹底を重ねて表明した[38]。さらに、仮に民主党と2008年度予算関連法案について合意できなくても、2009年度からの一般財源化は実施すると明言した。
臨時記者会見の発表内容については、財務省、国土交通省、与党役員、道路族議員には相談せず、福田と一部の官邸スタッフだけで策定された[40]。会見直前に内容を知らされた自由民主党幹事長の伊吹文明は「そこまで踏み込む必要はない」[41]「今日会見しなくてもよいのではないですか」[42]「そんなの踏み込みすぎです」[40]と電話で福田を説得したが、福田は応じなかった。驚いた幹事長代理の細田博之は「皆さん軟弱だ。『殿、ご乱心』と言ってくる!」[43]と政務調査会長の谷垣禎一とともに官邸に駆けつけたが、福田は「世論の相場観はそうだろ」[40]と指摘し与党側の説得を一蹴し、臨時記者会見で発表した。自民党の河野太郎は、党の反発を押し切った福田の姿勢を「総理による宮廷クーデター」[44]と評し、福田提案により自民党内の一般財源化主張派が「抵抗勢力から近衛部隊に一変した」[44]とした。河野や水野賢一ら一般財源化主張派は福田提案への賛同者を募り、他党の国会議員をも含む「福田提案を支持し道路特定財源の一般財源化を実現する会」を結成した[45]。
道路特定財源制度の一般財源化は小泉政権の聖域なき構造改革ですら実現を見送っており、続く安倍政権では余剰分のみしか一般財源化できず失敗したことから、歴代政権でも断念した難題と指摘されており[46]、実現できれば画期的[47]だが実際には難航すると予想された。しかし、3月30日には国会対策委員長の大島理森が、福田提案を正式な与党案とすることを表明し[48]、翌日には閣僚らが福田提案の具体化に向け協議を開始した[49]。4月11日、政府、自由民主党、公明党は2009年度に道路特定財源を全廃することで正式合意し、福田は「道路特定財源を廃止し、一般財源化を進めるため、与野党協議を進めていただきたい」[50]と指示した。5月12日、福田は若手議員を官邸に集め「これをできないような自民党や公明党には明日はない。必ずやり遂げる」[51]と檄を飛ばし、翌日に道路特定財源の全廃を閣議決定した。
党の住宅土地調査会では会長に就任し、2007年5月に「200年住宅ビジョン」を提言している。「30年程度しかもたない今の住宅では、土地にしか価値がなくなるから土地が投機対象になる」[52]と指摘し、住宅の耐用年数向上の実現による資産価値向上と、その実現に向け税制改正の可能性に言及している。
第168回国会の所信表明演説にて「真に消費者や生活者の視点に立った行政に発想を転換」[53]すると述べ、消費者保護政策を重視する考えを示している。政権発足後、内閣府特命担当大臣(国民生活担当)岸田文雄に対し、消費者の視点で政府の政策や法令を見直し2007年12月までに緊急対策を纏めるよう指示している[54]。今後、中央省庁の案や有識者の意見を踏まえ岸田が福田に報告し、法改正が必要な場合は第169回国会での法案提出を目指すとしている。その他、内閣総理大臣として史上初めて国民生活センターを視察したり、国民生活審議会への出席時間が内閣総理大臣として歴代最長となったり[55]と、さまざまな場で消費者重視政策をアピールしている。安倍政権では国民生活センターの大幅な機能縮小が提言された[56]が、福田は内閣府国民生活局長の西達男に対し「10年後、20年後を見通して組織として充実を図るべきだ」[57]と指示、国民生活審議会で機能強化を検討することになった[58]。
2008年4月23日、福田は「消費者行政推進会議」にて、政府の消費者行政を一元化するため内閣府の外局として「消費者庁」を新設し、消費者行政の企画立案や他省庁への是正勧告権を附与すると正式表明した。
福田は「消費者行政の司令塔として、消費者の安全、安心にかかわる問題について幅広く所管し、消費者の視点から監視する強力な権限を有する消費者庁を来年度に立ち上げ、早急に事務作業に着手する」[59]とし、各省庁に対する是正勧告権を附与する考えを示した。また、「消費者庁創設は行政組織の肥大化を招くものであってはならない。各省の重複や時代遅れの組織の整理にもつながるものでなければならない」[60]と強調し、消費者庁の組織・定員は他省庁から振り替えることで行政の肥大化を防ぎ、併せて縦割り行政の弊害解消や小さな政府実現を目指すよう指示した。
日本経済について「成長だとかGDP(国内総生産)という量的なものではなく、質的な転換がいる」[61]との持論を持っており、経済財政諮問会議に「構造変化と日本経済専門調査会」を新規に設置した。内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)大田弘子に対し、小泉政権当時の経済財政諮問会議議員だった牛尾治朗や、植田和男、香西泰を同調査会のメンバーとするよう指示し、同調査会に対し21世紀版「前川リポート」を策定するよう要請した[61]。
「構造変化と日本経済専門調査会」の初会合で福田は植田和男を会長に指名し、第34回主要国首脳会議前でにリポートを纏め、内需主導の経済構造の実現を訴えることを目指すとした[62]。
2008年、国土交通省が空港運営会社への外資規制を含む空港整備法改正案を提示すると、内閣府特命担当大臣の大田弘子や渡辺喜美らが規制に反対し、国土交通大臣の冬柴鐵三と対立した。世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)にて対日投資の拡大を呼びかけるなど、福田は空港関連会社への外資規制には従来慎重な考えを持っていた[63]。そのため、同年2月5日に規制反対派の中川秀直と会談した際、福田も中川の意見に同意した[63]。閣内不一致を解消するため内閣官房長官の町村信孝が東京国際空港運営会社のみ規制対象外とする妥協案を提示したが、福田は「ダボス発言と矛盾する」[63]と拒否した。同年2月27日には冬柴が町村に再度外資規制の必要性を強く訴えたが、福田は冬柴の意見を却下し[63]規制条項を削除した法案を閣議決定した。
この閣議決定に対し、冬柴の出身母体の公明党では異論が相次ぎ、政務調査会長の斉藤鉄夫は「公明党をなめているのかという声は非常に強い」[64]と批判した。一方、渡辺喜美は「福田康夫首相と町村信孝官房長官の強いリーダーシップで、いきなり外資規制を導入するという乱暴なことが回避されたのは大変結構だった」[65]と評価し「わが国の資本市場が安心して投資できる環境にあることがあらためて確認された」[65]と指摘している。
2009年度の基礎年金国庫負担率引き上げにともなう2兆5000億円の財源問題財源について、「今のようなきちきちの財政状況で(財源を)ひねりだすのは難しい問題だ。なおかつ毎年社会保障関係費は増加している」ため、歳出削減で補えない場合は「消費税を含めた他の手段を考える必要はある」と主張している[33]。
2001年5月11日に熊本地方裁判所にて「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」で国が敗訴した際、内閣官房長官だった福田は控訴断念を主張した。厚生労働省が控訴する意向と知った福田は、控訴の断念に向け「何とかならないか」[66]と内閣官房副長官の古川貞二郎に指示し、厚生労働省と調整させている。調整後、長官執務室に法務大臣の森山眞弓、厚生労働大臣の坂口力を呼び出し、「厚労省としての考えはどちらですか」[66]と確認し、坂口に「省の意見は控訴断念です」[66]との返答させてから、小泉純一郎に最終判断を仰いでいる。これらの政府内の一連の動きについて、坂口は「福田さんこそが控訴断念の立役者」[66]と評している。
「社会保障国民会議」を内閣官房に設置し、社会保障に関する制度を見直しを進めている。メンバーは福田自らが人選し、小泉政権で経済財政諮問会議議員を務めた奥田碩、吉川洋らを指名した。さらに、新たに内閣総理大臣補佐官(社会保障担当)のポストを設け、小泉政権で内閣府副大臣、内閣府特命担当大臣(金融担当)を歴任し、「社会保障費を5年間で1.1兆円削減する」[61]党方針を取り纏めた伊藤達也を補佐官に任命し、同会議の統括を命じた。
伊藤、奥田、吉川らを含む人事に対し、尾辻秀久は「かつての竹中路線、経済財政諮問会議と考え方を同じくする人。社会保障はもっと弱者に優しくなきゃいかん」[61]と主張し、丹羽雄哉、坂口力らも批判する[61]など、厚生大臣経験者ら小泉改革に否定的な厚生関係議員(社労族議員)が強く反発した。
2006年4月25日、都内での講演で、亡父の福田赳夫が首相在任中に打ち出した対東南アジア外交の基本原則「福田ドクトリン」を基礎に、新たな対アジア政策を策定すべきだとの考えを表明した[67]。
福田は外交や経済で日本の存在感が薄れていることを懸念しており、五百旗頭真を座長とする「外交政策勉強会」を設置し、国際社会の中での日本のシェア低下への対応を諮問した[68]。なお、岡本行夫、小此木政夫、北岡伸一、谷野作太郎、渡辺修など、小泉政権の「対外関係タスクフォース」メンバーの半数以上が外交政策勉強会にも参加している[69][70]。
2008年の日仏首脳会談にて、フランス大統領ニコラ・サルコジが「国際社会の変化に対応して、参加国を拡大する必要がある」[71]と述べ、主要国首脳会議参加国に中国やインドなど経済新興国も加えるよう主張した。しかし、福田は「国際社会に大きな責任を共有する小人数による率直な意見交換の場だ」[71]と述べ、経済新興国の参加はアウトリーチ会合のみで十分との考えを示した。
2007年11月23日 韓国海洋博覧会への支持を表明。「海洋」をテーマにした博覧会であるため、日本海呼称問題や竹島問題を韓国側の主張を宣伝する場所になることが危惧されるが、韓国との軋轢を避ける為、展示内容に配慮を求めるなどの要求は行わなかった。
中華民国総統陳水扁が「台湾」名義での国際連合加盟の是非を問う住民投票の実施を表明すると、中華人民共和国主席胡錦濤やアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュが反対を表明するなど、中国、アメリカ、欧州各国の政府は住民投票実施に反対した[72][73][74]。しかし、他国の政府とは一線を画し、日本として「独立反対」との表現を避け台湾に一定の配慮を示す立場を堅持している[75]。
第7?9代総統の李登輝とは、父である赳夫の代から交流があり、康夫自身も台湾を訪れた際には李と会食するなど関係を保っている[76]。また、小泉政権にて内閣官房長官を務めた際、中国共産党が台湾要人の訪日に反対姿勢を見せる中、福田は台湾外交部長の簡又新の入国を認めるよう指示し、2003年秋の簡の訪日を実現させたとされる[77]。
首相就任時に際し、台湾のマスコミから、日本の政治家としては異例な「台湾を三回訪問したことがある人物」[76]と紹介され、台北経済文化代表処のパーティーにも招かれ参加している[76]。
2007年12月28日、日中首脳会談後の共同記者会見中、中国側の通訳が「福田首相は台湾独立に反対するとの立場を順守、厳守していくことを表明した」[75]と福田の発言を歪曲して翻訳した。しかし、それを聞いた福田は外務審議官藪中三十二に資料を持って来させ、通訳の誤訳をその場で自ら訂正した[75]。
2008年2月17日、コソボ自治州の暫定政府がセルビアからの独立を宣言すると、日本政府として国家承認を行う考えを表明した。コソボの独立に関しては、賛成するアメリカ、イギリス、フランス、ドイツらと反対するロシア、中国、セルビアらに二分され、欧州連合や国際連合の機関承認は見送られている。そのため、承認する時期については情勢を見極め慎重に検討する考えを示した。3月5日、福田はコソボと同じくバルカン半島に位置するクロアチアの大統領スティエパン・メシッチらと会談し、両国ともコソボを国家承認する意向を確認し合った。そのうえで、独立宣言から1ヶ月後の3月18日、コソボの独立承認を正式に閣議決定した。
自民党総裁選直前におこなわれた2007年9月21日の東京・内幸町の日本プレスセンターにおける麻生太郎との公開討論会においては、「拉致被害者に一刻も早く帰国してもらうということを最優先にすべき」。「だからといって、過大な要求をつきつけられることがあってはならない。」、「交渉は対話一本やりでなく、状況に応じて対話と圧力を活用して交渉する。」、「こちらと対話するような雰囲気がまったくない、対話が途切れている場合は圧力も必要かと思う」などの見解を示した[79]。
周辺諸国に対しても日本人拉致問題解決への協力を要請している。日米首脳会談では、アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュとの間で日本人拉致問題について議論を交わし[80]、日越首脳会談では、福田がベトナム国家主席グエン・ミン・チェットに対し、日本人拉致問題・ミサイル問題解決に向けベトナムから北朝鮮への働きかけを要請し[81]、日露首脳会談でもロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンに影響力を行使するよう要請し協力を取り付けている[82]。
首相就任後のCNNからのインタビューにて、核開発を進める北朝鮮について「近隣に脅威を与えるようなものを持つ限りは自立していくのは難しい」[83]と指摘した。さらに、北朝鮮の将来について「今のままではいずれは消滅してしまう」[83]と厳しい評価を下し、北朝鮮の核兵器放棄が必須との考えを表明した。
ミャンマーにてサイクロン・ナルギスによる多数の死傷者が発生したため、日本政府は1000万ドル規模の緊急支援を表明し、福田は国際緊急援助隊の派遣など人的支援も表明した[84][85]。しかし、ミャンマーの軍事政権は、各国からの人的援助の申し出を拒否するとともに、国民に対してはメディアを通じ円滑な救援活動が実施されているとアピールした[86]。この軍事政権の対応について、福田は「正直理解できない」[87]と厳しく指摘し「仮に(死者が)10万人の災害なら、国際社会として放置するわけにはいかない」[87]と述べたうえで、国際連合の枠組みを活用し積極介入も必要と指摘した。さらに、国家平和発展評議会議長タン・シュエに対し、日本が緊急医療チームを派遣する用意があることを伝え、他国や国際機関の援助要員を受け入れるよう要請した[88]。
北京オリンピックの聖火リレーにて各国での抗議行動からリレー走者を護っている「聖火防衛隊」について、日本政府、および、警察庁は「聖火防衛隊」による警察権行使を拒否する考えを表明した。国家公安委員会委員長の泉信也は「各国の報道では法執行権限を持ってるような振る舞いをしているが、そのような行動を取るなら受け入れられない」[89]と指摘し、内閣官房長官の町村信孝も「正体不明かどうか分かりませんが、青い服を着た人達を出したいという話がきているとは思いませんし、また、仮にそういう話があったにしても、わが国はきちんとした法治国家でありますので、他国の警察等々の力を借りなければならないという治安状態にはない」[90]と述べた。福田康夫も中国外交部長の楊潔?に対し「日本の警察がしっかり守る」[91]と強調し、「聖火防衛隊」の警護は不要との考えを示した。さらに、チベット問題について中国側の主張を述べる楊に対し、福田は「国際的な問題になっている現実を直視する必要がある」[92]と反論した。
中国中央電視台とのインタビューにて、中国人のスポーツ観戦時の態度の悪さが問題視されている件について触れ、福田は「大勢の中国の方が中国の応援ばかりする」[93]と苦言を呈した。そのうえで、福田は「相手の国を批判するとかブーイングみたいなことをすれば、そうされた国の人たちは反感を持つ」[93]と指摘し、他国民にも「ほほ笑み」[93]をもって応じるよう中国国民に対して要求した。
2001年 年12月、内閣官房長官としての私的諮問機関として「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」を発足させた。
2006年4月25日、都内での講演で小泉純一郎首相の靖国神社参拝について「この問題は国際的な広がりを持ってしまい、 日本にプラスになっていない」と否定的評価を示した。自身が首相になった場合についても「参拝することは、おそらくないと思う」と答えている[94]。2007年9月15日の総裁選出馬記者会見では、「相手が嫌がることをあえてする必要はない」と述べた。
2008年5月7日、福田は胡錦濤との日中首脳会談に臨んだが、その後の共同声明では村山談話については一切言及しなかった[96][97]。村山談話の発表以降、日中首脳会談後の共同声明で村山談話に一切触れないのは極めて異例である。
2008年1月26日、世界経済フォーラム年次総会での演説にて「クールアース推進構想」を提唱した。この演説の中で、ポスト京都議定書の枠組みの構築、環境技術移転や途上国支援による国際的環境協力、革新技術の開発と低炭素社会への転換を実現するイノベーション、の三点について提案を行った。この提案では中国やアメリカなどを含む主要排出国全ての参加を求めており、セクター別の算出値に基づく国別総量目標を掲げるとしている。
欧州連合は「クールアース推進構想」に対し肯定的な姿勢を示しており、2008年4月23日の日欧首脳会談にて、福田は欧州委員会委員長ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾや欧州連合議長国スロベニアの首相ヤネス・ヤンシャから「セクター別アプローチ」への賛同を取り付けた[98]。
2008年4月17日の主要8ヶ国ビジネスサミットでの演説にて、低炭素社会の推進を表明した。出席した日本経済団体連合会など各国の経済団体の首脳に対し、二酸化炭素排出削減への協力を促し、「低炭素革命」の実現を呼びかけた。
2008年5月の演説にて、「アジア防災・防疫ネットワーク」[30]を提唱し、アジア全体を網羅する防災・防疫体制の構築を訴えた。インフルエンザのパンデミック発生に備え、日本の資金援助により50万人分の抗ウイルス薬を新たに購入し、東南アジア諸国連合域内だけで100万人分の備蓄体制を構築するとした[31]。また、各国の保健機関による伝染病監視体制の強化を主張している。
2008年5月の演説にて、「防災協力外交」[30]に注力することを表明し、アジア各国の自然災害に対し国際的な緊急援助隊を派遣できる制度を提唱した[31]。被災国からの支援要請を待たずに援助隊を派遣することで迅速な救援・復興支援活動の実現を目指すとしており、まずASEAN+3各国での協定の締結を提案した。
2008年、米不足に陥ると予測されたフィリピンが、各国に対し緊急援助要請を行った。これを受け、ミニマム・アクセスに基づき日本政府が輸入し備蓄されたままとなっていた輸入義務米の流用を決断し、フィリピンに対し政府備蓄米を援助することを決定した[99]。2008年6月、福田は国際連合食糧農業機関の食糧サミットで演説し、各国で相次ぐ食糧不足に対し「日本政府の保有する輸入米30万トン以上を放出する用意がある」[100]と表明し、各国政府に対しても備蓄食糧を市場に放出するよう要請した。
「日本国憲法」の前文は平和主義の精神を積極的に推し進めてきた反面、自衛という概念が希薄になっているという一大欠陥を抱えていることからあるため、日本のこれからの状況及び国際環境を考えた上で前文の改正が必要であるとしている。[101]
安倍晋三が政治資金収支報告書に「1円以上」の領収書添付を義務付ける方針を示したことについて、2007年9月15日に自民党本部で行われた共同記者会見において「すべてを公開するのが妥当かどうか」と述べた。
独立行政法人国立公文書館の整備、拡充を持論としており、「公文書館推進議員懇談会」では代表に就任している。公文書館の人員について、他国と比較し「米国の公文書館では2500人、英国では550人もの職員が働いているが、日本では、わずか42人。政府や自治体が持つ記録は、国民の共有財産なのだから、大事に保存して次世代に引き継がなくてはいけない」[52]と指摘している。薬害肝炎問題では厚生労働省の杜撰な文書管理が明るみになり、報告を受けた福田は激怒したとされる。2008年2月29日には内閣府特命担当大臣(少子化対策・男女共同参画担当)の上川陽子を公文書管理担当大臣に任命し、公文書の作成から保管までをルール化する「文書管理法案」の策定を指示した。
道路特定財源からの不適正な支出や、国土交通省出身者の公益法人などへの天下りが政治問題化すると、福田は「ちょっとひどい。大変な怒りを覚えた」[105]と激怒し「独立行政法人、関連の公益法人の実態は不透明なことがある。(不適切な支出も含め)一切やめてもらうと決意し、検討を始めた」[105]と表明した。
他国からの移民の受け入れには否定的な姿勢を表明している。ワシントン・ポストからのインタビューに対し、福田は「移民が急速に入り社会的混乱を起こすのは避けなければならない」[106]と述べ、受け入れにより懸念される問題点を指摘している。そのうえで、少子高齢化による労働力不足の解消のため移民を受け入れるべき、との意見に対しては「受け入れる必要度はまだ小さい段階」[106]と反論している。
冷静沈着な風貌だが、官邸の官房長官執務室で大仁田厚に対し「大仁田君、政治は男のロマンだ。ファイヤー」[112]と説くなど、ときに熱血漢ぶりを発揮することもある。政敵の菅直人は、官房長官時代の福田について「斜に構えているが泥をかぶってもやり遂げるというところがあった。小泉首相・福田官房長官というのは中曽根首相と後藤田官房長官を思わせる」[113]と評している。脚本家の三谷幸喜は、当時の菅と福田を対比し、福田の物言いについて「明らかに面白いことを言おうという意思がうかがえ、しかも確実に面白いことを言っている」[114]と評した。小泉政権で福田とともに閣僚を務めた竹中平蔵は、首相就任後の福田について、クールアース推進構想での数値目標導入、公務員制度改革での内閣人事庁の新設、道路特定財源の一般財源化表明などを例示し「一カ月に一回くらい結構大きな決断をしている」[115]と指摘し「福田総理は改革に後ろ向きであるわけではない」[115]としている。同時に、竹中は福田政権の問題点として、福田によるプロアクティブな改革への取り組みを国民はリアクティブな改革として受け取めていると指摘し、「『政策マーケティング』に問題あり」[115]と評している。
2008年2月10日に沖縄県で発生した在日米軍海兵隊二等軍曹による女子中学生強姦事件について、「わが国の法と証拠に基づいて適切に対処していく」と述べたうえで、「過去に何度か起こっているにもかかわらず、また起きてしまったことは本当に重大なことだと受け止めている。許されることではない」と強く非難し、アメリカ側に抗議し、改善を求める考えを明らかにした[116]。2008年2月27日、総理大臣官邸を訪問したアメリカ合衆国国務長官コンドリーザ・ライスは「極めて遺憾で申し訳なく深刻に受け止めている。再発防止に向け最大限努力したい」[117]と述べ、福田に対して謝罪の意を表した。
2003年10月9日、参議院「国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動等に関する特別委員会」の審議中、日本道路公団総裁藤井治芳の更迭問題が取り上げられた。参議院議員齋藤勁が『朝日新聞』の報道を基に、10月5日に民主党と自由党との合併大会が開催されるから、あえて大会当日を選んで藤井の総裁更迭を実施したのではないか、と問題提起した。齋藤は内閣総理大臣の小泉純一郎や内閣官房長官の福田を追及したが、小泉や福田らに否定された。齋藤は『朝日新聞』の記事に基づき「天下の報道、報道って、新聞ですよ」[118]と主張したが、福田は「そう書いてあるから信じようというのは、それはお金払って新聞買っているわけですから、それはお気持ちはよく分かりますけれども、やっぱりよくそこの辺は吟味する必要もある」[118]と指摘したうえで、「福田官房長官がこう言っただとか、そういうことでうそが随分たくさんある」[118]と『朝日新聞』の報道姿勢を批判した。
しかし、年金記録5000万件の照合作業について、前任首相の安倍晋三は2007年5月の国会答弁で「三千万人の方々とこの二千八百八十万件を一年間のうちに突合いたします」[120]と主張し、「一年間で私たちはすべて突合を行うということをお約束をする」[120]と明言していた。さらに、第21回参議院議員通常選挙での演説で安倍は「最後の一人まですべての記録をチェックし、まじめに保険料を払ってきた人の受給を保障する」[121]と述べており、選挙公約に掲げていた。
中間報告の推計に基づけば安倍の公約の達成はほぼ不可能と見られることから、政府・自民党に対し公約違反との批判が高まり、福田が首相として謝罪する騒ぎとなった[122]。内閣官房長官町村信孝は「亡くなった方もいる。『最後の一人まで』ということはありえない。もとより無理」[122]と述べ、安倍の公約自体に実現可能性がなかった問題点を指摘した。福田は「(当時の)安倍総理は割合ときちんと言ってるんじゃないかと思います」[123]と発言し、安倍を擁護する姿勢を見せた。
ところが2008年1月に開催された首相当時の番記者との懇談にて、安倍晋三は「年金ってある程度、自分で責任を持って自分で状況を把握しないといけない。何でも政府、政府でもないだろ」[124]と述べ、国民各自の自己責任も問われるべき、と指摘した。さらに、公約違反とのマスコミの指摘に対して、安倍は「今になって(参院選の)選挙演説の『最後の一人までチェックして支払います』が公約違反と言われるけど、俺は一言も三月までに支払うとは言ってないんだぜ」[124]などと反論したたため、物議を醸すことになった。
2002年、訪朝前に小泉首相との面会を要望した拉致被害者家族に対し、「心静かな状態で首脳会談を行なうために、家族とは会わないほうがよい」と言って、会わせなかった。首相に代わって福田が、拉致被害者家族と会った際、これまでの対応から誠意を感じていなかった増元照明に「私はあなたを信ずることができない」と言われた[125]。
拉致被害者家族の一人、蓮池透によれば、2002年9月、拉致被害者の安否について官房長官として福田が家族について報告した際、蓮池透の母が生存とされた家族と死亡とされた家族とを別々にしないで、一緒の場で報告してほしいと訴えると、「黙って聞きなさい。あなた方の家族は生きているのだから」と、両腕で押さえつけるような仕草をしたという。 その報告に立ち会った 救う会全国協議会事務局長の荒木和博は生存と知らされた家族らが他の方が亡くなったとの知らせに号泣したため、喜んで感謝すると思っていた福田はあてが外れて動揺したように見えたという[126]。蓮池は「8人死亡」という北朝鮮当局の解答と小泉総理が「日朝平壌宣言」に署名したことを同時に知って家族たちがマスコミの前で騒ぎ出さないように、意図的に被害者家族を“軟禁状態”にしたのだと思ったという。蓮池はその時点では日本政府は安否に関して何の確認も裏付けもとれてはいなかったのに福田が生死の情報を断定的に語ったことを許しがたいと非難している[127]。荒木和博も福田は「亡くなったという情報があります」という言い方だったが、語調は極めて断定的で「北朝鮮側がこういう情報を伝えています」といったようなものではなかったと語っている[126]。2007年9月21日の麻生太郎との公開討論会において、これらの報告の際の状況について尋ねる麻生の質問に答えて福田は「外務省の連絡によるとこういうことですということを明確に御家族の方々に申しました」、「私が断定的に言ったということではありません」と説明した[128]。
一時帰国の約束で拉致被害者が帰国した際、安倍晋三官房副長官(当時)らの北朝鮮には返さないという主張に対し、田中均らと共に北朝鮮に帰すべきと主張していたと言われているが、2007年9月21日の麻生太郎との公開討論会においては、「その時私は、帰すべきではないとは言わなかった」、「ただ、北朝鮮に返すという約束を破って大丈夫なのかどうかを外務省によく尋ねた」、「最終結論を出す前に、帰国した本人に意向を確認して下さいとお願いし、(日本に残るという)確認が取れた」、「そういうプロセスを経てきたので、充分な配慮をしながら道筋を歩んだ」と説明した[128]。
拉致問題についての外務省アジア大洋州局長(当時)の田中均の働きに関しては「田中はよくやった。パーフェクトだ」と評価した[125]
小泉首相の靖国神社参拝日を、福田は前駐中国大使の谷野作太郎に相談し、小泉の10月訪中を中国が受け入れることを見返りに、8月18日参拝」に向けて動き出したという[130]
2003年6月26日、女子大生が集団で強姦されていたスーパーフリー事件について、衆議院議員太田誠一が「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい」と取られるような発言をし大きな非難を受けた際に、「そういう格好しているほうが悪いんだ。男は黒豹なんだから」、「女性にもいかにも『してくれ』っていうの、いるじゃない」とオフレコで発言したと報道され[131]、女性の人権に反する発言であると非難を受けたが、福田は、同年7月3日の参議員の内閣委員会において、「六月二十七日の記者会見でもはっきり言っております。レイプは犯罪行為だと、それも凶悪犯罪であると、こういうふうに言っているんですよ。ですから、私も、いまだかつてレイプを擁護したということは一回もありませんよ」、「今言われるような発言はしていないし、私の真意と全く違うということだけは重ねて申し上げておきます」[132]、「その発言の中身を一々記憶しているわけではありませんけれども、私の考えていることは、レイプを擁護するような、そういうことはしたことがないと、これはもう明確に申し上げます」、「長い間話していれば前と後ろをつなげれば何かできちゃう、全く違う発想になると、そういうことだってあるわけですよ」などと述べた[133]。
2004年4月27日午前の記者会見で、閣僚の年金保険料の納付状況について「公開しろと国会で決めるなら従う」としながらも、「個人情報であることを理由に公表を改めて拒否。3人の閣僚が未納を認めたことについては「積極的に開示されたということであって、本来ならばこれは守られるべき個人の情報だ」と述べた。公表を求める質問を続けた記者に対し、福田が年金制度の重要性などを語り、話題をそらしたため、記者が福田に「おかしいでしょう」と詰め寄ったことに対し、「あなたの方がおかしい」と反発した[134]。同年5月、『週刊文春』が、国会議員になる以前にも延べ5年8カ月の未加入期間があったことを指摘[135]。福田長官周辺も『朝日新聞』の取材にその事実を認めた(政治家の年金未納問題を参照)。
2007年9月、 福田首相が代表を務める「自民党群馬県第4選挙区支部」や資金管理団体「千代田経済懇話会」、関連の政治団体の政治資金収支報告書に添付された領収書のコピーのあて名が100以上改ざんされていたことが発覚した。福田は「経理担当者が領収書を取り直すという手間を省いた」、「最高責任者としては、“汗顔の至り”だと思っている」などと説明した[136]。同年10月3日の衆議院の代表質問では「改ざんではなく実態に合わせて補正した。全部領収書を取り直して取り換えた」と釈明した[137]。
福田が代表を務める政党支部が1996年と2003年に、外国人や外国人が株式の過半数を持つ企業から献金を受けることを原則禁じている政治資金規正法に反し、朝鮮籍の会長と韓国籍の親族が全株式を保有する群馬県高崎市のパチンコ店を経営する企業から計20万円の寄付を受けていたことが発覚した[136]。
2000年11月、与党保守党の松浪健四郎が本会議の質問中に野党のヤジに激高してコップの水を野党席にふりかけた事件の際、「民主党の若い人の騒ぎようは恥ずかしい。議長の指示に従わないのはガキ以下だ」と発言し[2]、衆院議運委員長から厳重注意を受け陳謝した。
台湾前総統の李登輝が病気治療のために台湾側でビザの申請書提出したが、日本の外務省本省は受理していないと発表し、官房長官であった福田も「申請は行なわれていない」と記者発表した。これに対して李登輝は台湾での会見で「日本政府は嘘つきだ」と非難した[138]。
自民党内で福田が支持を集めるにつれ、中国関連株が値上りする現象が見られた[139]。中国国内では、福田を漫画『ドラえもん』の登場人物「野比のび太」になぞらえて親しみを表す声もあると報じられた[140]。
2008年発覚した中国製冷凍ギョーザによる中毒事件に関し、2008年2月29日、毒物混入経路が不明のまま中国公安省が開いた「中国国内での毒物混入可能性は極めて低い」という事実上事件の幕引きを図る会見について、「中国は解決に非常に前向き」と評価した[141]。
中国重慶市の地元紙・『重慶時報』が福田は一般的に「親中派」と見られているが、実際は外交理念は小泉元首相と同じであり、平和憲法改正と核兵器保有などの問題で、麻生太郎や安倍前首相より更に過激であるという理由で、福田を「親中派」と見るのは時期尚早であるとする中国国務院のシンクタンク、社会科学院の楊進博士の寄稿したリポートを紹介した[142]
2007年10月5日、時津風親方(年寄、元小結双津竜順一)が財団法人日本相撲協会に解雇された問題について質問され、「国技として、相撲がみんなから愛されているなかで、こういうことが起こったことは極めて残念だ」「そういうことを乗り越えて、みんなから愛される相撲になってほしい。相撲協会頑張って欲しい」[143]と答えている。
歴代首相との交遊で知られた作家の川内康範とは、康夫の父・赳夫の代から交流があり、首相在任中も康夫は川内と会談しアドバイスを受けていた[144]。川内の訃報に接した康夫は「あの方は考え方がしっかりしていて、私どもにも参考になるようなことを言ってくださった。残念です」[145]とコメントした。
福田康夫が首相に就任し、日本初の親子総理が誕生したが、その際、父赳夫が首相としてできなかったこととして注目されることがある。一つ目はサミットの議長、二つ目は解散総選挙である。父赳夫は1979年に日本の首相としてサミットの議長を担うことが予定されていたが、1978年の自民党総裁選で政敵である大平に敗北し、サミット議長も解散総選挙もできないまま総理総裁から退くのを、息子である康夫は首相秘書官として間近で見ていた。なお、息子である康夫は2008年7月にサミットの議長を担うことが予定されている。
妻 貴代子(宮城県,実業家嶺駒夫の娘 島根県,政治家櫻内幸雄の孫娘、政治家櫻内義雄(元衆議院議長)、実業家櫻内乾雄(元中国電力会長)の姪にあたる)
その他の親戚 斎藤明(毎日新聞社会長)、太田誠一(政治家)、松谷明彦(官僚、政策研究大学院大学教授)、千野志麻(フリーアナウンサー 甥の真一の妻)など
^ 内閣府国民生活センターの在り方等に関する検討会『国民生活センターの在り方等に関する検討会最終報告』2007年9月。
ウィキソースに福田内閣総理大臣の談話 テロ対策特別措置法の失効に伴う対応措置の終了の原文があります。
福田康夫公式サイト(2007年9月25日からそれまでの内容を削除し、福田康夫を装ったなりすましメールへの警告文書(gif画像1枚)のみになっている。また、この内容の一部が「なりすまし」ではなく「なりますし」と誤植があり、2007年10月3日現在も修正がされず、各方面で話題になっているが、その後修正が施され、そののち閲覧が出来なくなった。そのほかについては福田ウイルス参照。)

 

[ 496] 福田赳夫 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E8%B5%B3%E5%A4%AB

群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(元金古町長)の二男として生まれた[1]。福田家は江戸時代には名主(庄屋)を務めた地元の名門であった。小学校の頃から神童の誉れ高く、旧制高崎中学(現在の群馬県立高崎高等学校)を首席で卒業し、第一高等学校から東京帝国大学法学部へ進学。高等文官試験に一番の成績で合格し、大蔵省に入省した[2]。大蔵省入省から1年を経ずに、 財務官付の役職でロンドンの在英日本大使館に派遣された。当時の上司にあたる財務官は津島寿一である。3年半のイギリスでの勤務の後、帰国。その後は大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めた。しかし、1948年の政府関係者に対する贈収賄が問題になった昭電疑獄の際に、大蔵省主計局長だった福田は収賄罪容疑で逮捕される。結果として無罪にはなったものの、これを機に大蔵省を退官した。
1960年(昭和35年) 12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男、田中龍夫、一万田尚登、倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。続く佐藤栄作政権下では大蔵大臣、党幹事長、外務大臣と厚遇され、佐藤の後継者として大いにアピールしたが、この時から“ポスト佐藤”をめぐる田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まる。
日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える。また中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して台湾との関係を重視した慎重路線を打ち出す。これらの「外交タカ派」のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である町村派の森喜朗や小泉純一郎、安倍晋三らに引き継がれている。
1976年(昭和51年)、総裁戦で他の立候補者がなかったため、両院議員総会での話し合いにより総裁に選出され、過半数を僅かに一票上回る得票で首班指名され、三木武夫の後任として念願の政権(福田内閣)を樹立。71歳という高齢を心配する周囲からの声に対し、自らの生年に因み「明治三十八歳」と言って若さをアピールした。また、外交問題の解決をはじめ、実務型の内閣であったことから、内閣をp「働こう内閣」と表現。また、前内閣で政治改革は進む一方で外交や経済の案件が遅れており、総理大臣をもじって「掃除大臣」と自称した。
就任当初は党内抗争(「三木おろし」)において、大平正芳との間に「2年で政権を譲る」と大福密約によって、総理の座を得たということや、新鮮味に欠けるなどの理由、また自民党内でも右派の立場であったため左派層に支持を広げにくいなどの理由から支持率は低かった。福田は大平正芳を幹事長に据えて大平派との連携により政局の安定を図る。
1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙で自民党は改選議席を上回る議席を確保。同年に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を飲み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと国際的な批判を浴びることとなった。しかし在任中を通じて福田内閣の支持率は徐々に持ち直し、日中平和友好条約の締結や積極的な東南アジア外交の展開を行う。その姿勢はフィリピンのマニラで発表された福田ドクトリンへと結実することとなった。
派閥解消を目指して党員投票による自民党総裁予備選挙を導入したが、現実には大平正芳候補を支持する田中派が大掛かりな集票作戦を展開する一方で、福田派は派閥解消を主唱する建前や事前調査における圧倒的優勢の結果に油断し、動きが鈍く、当初の下馬評が覆され、福田は大平に大差で敗北した。福田は「予備選で負けた者は国会議員による本選挙出馬を辞退するべき」とかねて発言していたため、本選挙出馬断念に追い込まれることになる。自民党史上、現職が総裁選に敗れたのは、福田赳夫ただ1人である。「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思うものだね」の言を残して総理総裁を退く。
1979年(昭和54年)、大平政権下では反主流と化して40日抗争、ハプニング解散で再び田中・大平主流派と対立した。その後も度々総裁候補として浮上し、自民党の実力者であり続けた。1982年(昭和57年)の総裁選挙の際、田中角栄が中川一郎に対し「跳ねた鯉は池に落ちる。」と発言したことが角栄の恫喝であると朝日新聞などアンチ角栄のマスコミが書きたてたが浜田幸一や佐藤昭等によれば福田らの罠にかかるなよという意味でなされた発言であったといい浜田が福田や三塚博を強く自著で批判していた。
首相引退後は、世界の大統領・首相経験者らが世界の諸問題の解決へ向けた提言を行う場として「OBサミット」設立(1982年)するなど、「世直し改革」を訴え「昭和の黄門」を自認した。また造語・警句の名手として知られ、「狂乱物価」「昭和元禄」「視界ゼロ」「日々是反省」「福田内閣はさあ働こう内閣だ」など福田語録を残している。後に総理大臣になる森喜朗や小泉純一郎は彼の教えを受けた[3]。1984年(昭和59年)に二階堂擁立構想をきっかけに発言力が低下し、福田の教え子であった森や小泉らからも世代交代を主張する声が出たため1986年(昭和61年)に派閥を安倍晋太郎に譲った。この件が元で中選挙区で安倍のライバルであった田中龍夫が引退を決意したとされている。
リクルート事件によって竹下内閣が崩壊した際には福田を後継の総理・総裁に推す動きが、また安倍が死去した際には森らが福田をもう1度派閥の長にしようとする動きを起こしたが、何れも福田は「私は高齢だから相応しくない」として辞退している。
国際的に、黒字過剰問題の解決のために、内需主導型の経済運営による輸入を拡大など、市場の開放に努めるべきとした。[6]
中華人民共和国との関係について、「お互いに内政に干渉しないことが一番大事であり、それが守られなければ、『日中平和友好条約』が名ばかりのもの(名存実亡)になってしまう」という旨の見解を述べた。[7][8]
日韓両国に隣接する大陸棚の北部の境界の画定や大陸棚の南部の共同開発を定めた「日韓大陸棚協定」を批准。
大蔵大臣在任中だった1974年5月7日に、東京の帝国ホテルで開かれた、統一教会(統一協会)(世界基督教統一神霊協会)の教祖、文鮮明の講演会「『希望の日』晩餐会」(名誉実行委員長は岸信介元総理)に同僚議員の誘いで参加し、「アジアの偉大な指導者」と文鮮明を賛美し(統一協会のサイト[1]、韓国式の抱擁を交わした(当時の写真)。様々な社会問題で批判のあった統一教会に賛同を示すことに問題はないのかなど、国会でも度々追及を受けたが、福田は「文鮮明の思想はよく知らないが、自分の日頃主張する“協調と連帯”という考えを述べていたのでよかったと感想を言っただけ」、「パーティーや宴会ではちょっと輪をかけて話すんです。そのような環境のもとにおいて話したことで、そんなものを一々取り上げてそれを御質問されても、お答えすることはできない。」という旨の弁明をした。 [10]そして、福田は発言の内容について、「当時の記録がございますからよくごらんください」と述べていたが、衆議院の法務委員会で日本社会党の西宮弘が資料を要求したら、上村委員長からあいさつだから、原稿なしでやったのだから、記録があるはずがないという趣旨の報告がなされた[11]。
勝共連合については国会で「勝共連合が反共を旗印にしておる、そういう点に着目いたしまして自由民主党と勝共連合が協力的側面を持っておったということは、これは御理解願えると思う」、「余り勝共連合の中身につきましては承知しませんけれども、共産主義反対というたてまえについて共感を覚えている」と述べ、勝共連合の外国為替法違反や詐欺に該当するような資金獲得活動などの反社会的な問題を指摘された際は「そう悪いことを一般的にしておるというような認識でございませんので、一般的に調査するということは考えません。」と答弁。関係を断ったらどうかとの問いには「勝共連合についていままで持っておる認識に立つと、手を切るというような問題は起こり得ざることである。」旨の見解を述べた[12]。
児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義との親交が深く、「福田の影に大谷あり」と言われた。政財界とアンダーグラウンドの世界に隠然たる力をもち、裏千家とも姻戚関係にあった大谷は、福田を首相にすべく、毎年代々木上原の千坪の豪邸に政財界の要人を招き、茶会を催していた。大谷の長女享子が、裏千家14世千宗室の子息・巳津彦と結婚した際には、作家の吉川英治夫妻と共に、福田夫妻が媒酌人を務めた。また、1991年5月に大谷が逝去した際には、葬儀委員長も務めている。
WWF(現WWE)格闘技世界ヘビー級チャンピオンアントニオ猪木を公私に渡り可愛がり、自身が媒酌人を務めた堤義明が経営するプロ野球球団、西武ライオンズの初代名誉会長にも就任し1979年4月西武ライオンズ球場初の公式戦で始球式を担当するなどプロスポーツ界との縁も深かった。
^ 『回顧九十年』 84-85頁に福田は「贈賄側で逮捕された昭和電工の当時の社長日野原節三氏が私の一高、東大の先輩で懇意だったことから、昭和電工への融資に特別の便宜を図ったという理由で私もこの事件に巻き込まれた。ただしこれは検察の全くのデッチ上げであり、判決では“検事の所論はまさにかの鷺をカラスと言いくるめる論法に似たものと評すべきであろうか”として私自身の潔白は明快に証明された。」と記している
^ 『回顧九十年』 31-32頁によると、妻三枝は群馬県原町(現東吾妻町)出身の新井文夫(足尾銅山の技師)の三女で、三枝の兄が福田と高崎中学の同窓で仲がよく、福田が東京の学校へ通うようになった頃から、三枝との付き合いが始まったという

 

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